広報誌「長寿の森・タイムス」Vol.7発行しました 2009年11月01日
長寿の森・タイムスVol.7(2009年4月~2009年10月)
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■記事の内容
- 同友会グループ 同友会かわら版創刊
- 寄稿文(長寿の森紀行・連載⑥バルト3国の美しい古都と城を訪ねて)
- 長寿の森広場
■紙面の一部を抜粋してご紹介します。
寄稿文
長寿の森紀行・連載⑥バルト3国の美しい古都と城を訪ねて ナビゲーターK・F
バルト3国(リトアニア・ラトビア・エストニア)は、周辺諸国の歴史に巻き込まれながら1991年ソ連崩壊の祈りに前後して独立。独特の文化により近代化した為、中世の面影が残る石畳の街全体が特徴であり、世界遺産にも登録されています。
成田からモスクワ経由にてリトアニアの首都ベリニスへ。ナポレオンが"祖国に持ち帰りたい"と賞賛した聖アンナ協会。また"世界の劇場だ"とされる、聖パテロ&パウロ協会の漆喰彫刻は見事でした。
また、ベリニスには教会が多く、ドイツ騎士団の侵攻から守るため建設された湖上のトラカイ城は、1332年までベリニスの首都として栄えました。
この日の昼食は、コウドゥーナイと言われるリトアニア風の水餃子。ホワイトソース仕立てでこれがとても美味。
そして首都に次ぐカウナス市へ。白鳥と呼ばれる旧市庁舎であったカウナス城には、大勢の小学生が見学にきていました。
カウナス・リトアニアで忘れてならないのは、第2次世界大戦中の大日本帝国・リトアニアの領事であった、杉原千畝。1940年・夏、ユダヤ人に発行したビザは約40日間に3000。救った人々の数は6000人ともいわれています。
当時の領事館は現在記念館に。住宅であった二階は日本語の研究所として生まれ変わっています。当時はコピー機もない時代。行列して待つ人の為、全て作業は手書きで行われました。一日に1000近いビザの発行の為、腱鞘炎になった夫の手を奥様が温め、マッサージされていたとのエピソードもあります。
偶然にも私が帰国して2・3日後、奥様の幸子さんが94歳で他界されたのと記事を新聞で目にしました。杉原千畝を支えたとても素晴らしい才女であったに違いありません。
その後、カウナスからラトビアの首都・リガへ。その後、その途中に"十字架の丘"があります。侵略の犠牲になった人々の祈りと悲しみの象徴である十字架が霧の中から現れ、とても幻想的な光景でした。その十字架の数は、驚くことにリトアニアの人口より多いそうです。
また、リガにはバルトのベルサイユと呼ばれるルンダーレ宮殿があり、それは18世紀にロシヤの女帝・アンナが、当時愛人であったビロン公と夏を過す為に建てた宮殿と言われてます。
幸いな事に、過去災害など一度も遭わなかった為、オリジナルの壁画や家具などが今も数多く残されています。
私がリガの街を訪問した時は、偶然にも収穫祭で大聖堂や市庁舎の前は多くの市民が集まり大賑わいでした。舞台の上では子供たちが踊り、民族舞踊も披露されていました。また、市民が集い出店する露天も民族色豊かな品ばかりで、見るだけでも心踊りました。
その日の昼食は、ロールキャベツそっくりのラトビアの伝統料理。優しい味がとても印象的。そして、エストニアのパルヌからフェリーでムフ島とサーレマ島へ。この島はソビエト時代には上陸できなかった島です。
4000~7000年前に、1万tの隕石が落ちて出来たといわれるカーリ湖。
そこにあるアングラ風の木造風車群は、オランダの風車より古く、趣がありました。
その後、海に架かる4キロの橋を渡り首都タリンへ。三国の中では一番小さいこの国、城塞に囲まれた旧市街の町並みはとても美しく、13世紀から時が止まったように感じます。古い石畳の散歩道を登ると大聖堂の展望台があり、旧市街の先にはバルト海が広がっていました。
ドイツ・ハンザ同盟(経済的に利害の一致する都市連合)に、1248年加盟したこの街は、ドイツ商品の館や倉庫、ゴシック建築の協会が点在しています。
また、サーレマ島には切妻屋根の黄色と白の3連の建物があり、それは"三人姉妹"と呼ばれています。現在は高級ホテルとなり、天皇陛下も皇太子時代にご宿泊されたそうです。
そして最終日は野外博物館へ。住居が点在する中にある18・19世紀の茅茸き屋根の教会であり、屋内は土間で電気代がない為薄暗く、この教会で結婚式が行われたと思うと、とても不思議・・・。
リトアニア・ラトビア・エストニア・・・ドイツ以上にドイツらしいと実感した、バルト3国の旅でした。







